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【1983年 トヨタセリカLB2000GT】 

この年、初めてクーラー付きの車を購入した!
実は今までに乗り継いできた車は全てクーラーなる物が付いてなかった。
クーラー付だと購入時に10万円ほど値段が高くなってしまう。
金持ちの友人から購入したランサーもラリー仕様車だった為、クーラーは付いていなかった。
友人達の車に乗るたびに何時も感動を覚えたものだった。
だが、真夏でも窓を全開して走行すれば、結構気持ちが良くあまり不便は感じていなかった。
今ではエアコンが無い車に夏に乗ることなど考えられないが…。

セリカは昭和45年・1970年に発売され、当時は「だるま」と言うニックネームで呼ばれていた。
私が購入したのは、だるまではなく昭和50年型のLB2000GTだった。
就職して、はれてローンを組めるようになって24回払いで購入したのだ。 8年落ちで全て込み込みで60万円だった。
60万円をボーナス払い併用で24回で購入する時に、中古車屋のニイチャンが勝ち誇ったような笑顔を浮かべたのを今でも覚えている。

今までの車に比べて高級感があった!それはクーラーが付いていたからそう感じたのかもしれないが、当時の私にとっては高級車だった。
1600ccしか乗った事が無かったので2000ccのセリカに乗った時には正直に速いと感じた。このセリカで毎週土曜日の深夜には環八で国道246瀬田交差点から青梅街道の四面道までの間をシグナルクランプリをしながら楽しんだものだ。

だが、環七通りの豊玉陸橋下で信号待ちをしていたら、アホなオッチャンにオカマを掘られてしまった。 初体験であった。

かなりのスピードで衝突して来たのだが、幸いにも私はむち打ち症と言うものにはならず、双方に怪我は無かったが、相手の保険でただで通院させてもらえると聞き念には念を重ね病院通いをしてマッサージを行い肩凝りの解消をした。 

その後知ったのだが、通院で一日1万円が見舞金としてもらえるとは驚いた! 10日間しか通院しなかったのが今でも悔やまれる。
知っていればアルバイトだと思い、1年間くらいは頑張って通院したのに…!でも保険会社からは拒否されるだろうけどね!

セリカLB2000GTともこの時点でお別れになってしまった。


【1981年 ランサー1600GSR】

当時、学生であった私は農家の田植えのアルバイトをさせてもらいながら、そこのご主人の好意で軽トラを借りて乗っていた。
友人たちが新型車を親から買ってもらっているのを横目に軽トラで大学に通学していたが、女子学生には見られないように大学の裏にこっそりと止めたものだ。 

アルバイトで金をためながら次の車を思い描く日々を送っていたが、仲の良い友人がサバンナRX−7を購入し、今の車を売りたいと言っていた。その友人は自動車部に在籍しており、彼が乗っていたのはランサー1600GSRだった。

ランサーは、1973年2月に発売された大衆車で、ボディーは強固で安全なモノコック構造で、1200ccから1600ccまで計12タイプの豊富なバリエーションを誇り、低公害型エンジン、チルトハンドル、コラプシブルステアリング、マスターバック付ディスクプレーキなどの当時の最新技術が随所に盛り込まれていた。
同年8月には、0〜400m16.4秒を誇る最速モデル1600GSRなど7タイプが追加された。モータースポーツ界での活躍はめざましく、サファリラリーで1974年と1976年に総合優勝、サザンクロスラリーでは1973年から4年連続総合優勝を飾った。写真のラリー車は、1974年のサファリラリー優勝車である。    

昭和56年にこの友人からランサーGSRを購入し1年くらい乗ったであろうか。

しかし、ランサーGSRとの別れも突然やって来た!

自動車部のラリーで使用していたGSRは、日々、かなりのメンテを必要としていたが、ガソリンを入れるのが精一杯な私にメンテをする余裕資金など存在する筈が無く、以前の金持ちのオーナーから貧乏人の私の手に渡ったGSRは、たったの1年でエンジンが息絶えてしまった。




【1980年 ギャランGTO】

この年、念願のギャランGTOを購入することが出来た。

ギャランGTOは、ロングノーズ、ダックテール、日本車初の50インチカーブのサイドガラスを採用したスタイルは、それまでの国産車にない印象を与え、東京モーターショーでも圧倒的な人気を博した。

貧乏人な私にとっては8年落ちのGTOを買うのが精一杯であったが、納車された日にはうれしくて一日中車を磨いていたものだった。
ボディーを磨きながらFTOに比べて、二周りほど大きくなったように感じられ、なんとなく自分が出世したかのような気分になっていたのを今も思い出す。

4サイクル・4気筒・1,597cc・DOHC・125psは当時は発売から10年経っていたが、まだまだ新型車には引けを取らない走りをしていた。
ただ、FTOもGTOも有鉛ハイオクガソリンが指定だったので、遠出するには有鉛を扱っているガソリンスタンドがあるかどうかいつも不安であり、助手席の足元には20L灯油缶にガソリンを入れ、それを2本抱えながらドライブを楽しんでいた。
貧乏ではあったが、楽しく懐かしい日々であった。

このGTOとの別れは突然やってきた!
いつものように慣れしたんだ田んぼ道を全開しながらコーナーにさしかかると、田んぼから這い上がって来た耕運機が落としていったと思われる泥を踏んでそのままスピンしながら田んぼへ落っこちて逆さまになってしまった。
おりしも田植えの季節であり、田んぼには植えたばかりの苗と用水路から引っ張って来た水がタップリとあり、怪我は無かったのだが車の中は田んぼの泥水と苗でイッパイになり、自分は死んだと思った! 

私にGTOを直す金などある訳が無く配車になってしまった。
農家の人はとても優しく、田んぼの半分をダメにしたのに弁償はさせられなかった。
金が無かったので保険など自賠責しか入っていなかったから、そっちのほうでも生きた心地はしなかった。
ずいぶん無謀な事をしてきたものだと今思うと苦笑してしまう。

その後、その農家の人に頼んで田植えと稲刈り、脱穀のアルバイトを1日1万円でさせてもらった。
後で知ったのだが、従業員を何人も使っているようなとてもお金持ちの農家だった。








【1978年 ギャランFTO】

今から二十数年前、昭和53年に私が始めて購入した車が中古の三菱のギャランFTO1600GSRだった。

ギャランFTOは、1971年に発売され、当初は1400ccネプチューンエンジンを搭載したGI、GII、ツインキャッブ付GIIIの3タイプであったが、1973年にモデルチェンジを実施、1400ccおよび1600ccサターンエンジンを搭載した6タイプとなる。
1600GSRはラリー向きのホイールベース・トレッド比、リミテッドスリップデフ、オーバーフェンダーでエキサイティングな走りを実現し、"ザ・ベスト・スポーツクーペ・イン・ジャパン"と高く評価されたものだった。
昭和53年と言えば、排ガス規制で牙を抜かれた狼達が多い中、4サイクル・4気筒・1,597cc・SOHC・110psは当時としては十分なものであった。

ある日、交差点待ちをしていたら隣にギャランGTOが停車し、シグナルグランプリの開始になってしまった! 

前方信号機が4つ程一斉に青になる。0→400では無く0→600位になってしまった! スタートダッシュでは一車身程前に出ることが出来たが、信号2つ目位であっさり抜かれてしまった!
抜かれる時にGTOを見て、「綺麗な車だなぁ〜」と感じてしまい、それ以来GTO購入計画を立てて、必死でアルバイトをしたものだった!


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